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メタルとは何か?
randy toru (2007-10-28 00:58:00)
メタルという音楽についての考察
1 ヘヴィメタルの表すもの
ヘヴィメタルは「未完成」を表現する音楽である。故にヘヴィメタルは、完成度の高い音楽であってはならない。なぜならば、ヘヴィメタルの持つ個性を損なうからである。
ヘヴィメタルという音楽が持つ個性・・・それは、激しさであり、怒りであり、強さ、雄々しさ、自由を求める力、である。それは同時に己にそれらの力が備わっていないが故の弱さを意味する。
ヘヴィメタルという音楽の本質には、優しさや美しさ、哀しさという物はあってはならないと思う。少なくとも、そういった感情を表現する為の音楽ではない。しかし、私はヘヴィメタルの曲を聞くと、優しさや美しさ、哀しさを感じてしまうときがある。そしてそれがよりいっそう、激しさや怒り、強さの印象を高めるのだ。それは、何故か?
激しさや怒り。この感情は、自分自身の弱さの裏返しである。これは強さや自由を求めるという行為によってもたらされる。あるいは自分自身の欲望から来るものである。この状況の指示すものは、その人物が満たされていないという事である。そしてさらにいえばその人物が「未完成」であることの証である。
ヘヴィメタルは、社会への反抗や自由への渇望、強さへの憧れ・・・これらを求める賛歌であり、そしてそれは永遠にみたされることのない欲望なのだ。
だから、ヘヴィメタルという音楽は、絶対にメジャーなジャンルとして確立されてはならないのである。そういった運命を背負っているのである。80年代に、ヘヴィメタルはメジャーな存在であった。しかしそれはただの流行でありファッションなのだ。
ヘヴィメタルに対し、冷ややかで蔑んだ反応をする世間に向かって反発する。クラッシックをあがめ、ポップスや流行に迎合する社会に噛み付いて、喧嘩を売るのがメタル魂というものだ。この精神が備わっていないヘヴィメタルは、メタルとしての存在意義を持っていない。
私は、試練に立ち向かっている時、目標にむかって進んでいる時、そのプレッシャーにくじけそうな時、そして落ち込んでどうしてよいかわからない時・・・これらの時に、特にメタルの曲を聴きたくなる。メタルの曲を聴くと、苦難に向かっていくというパワーや、新しいことに挑戦することへの勇気が湧いてくるのである。
「未完成」な自分を意識し、新たな自分へと向かっていく。人生はその繰り返しである。
そしてそれは個人の集合である社会や国家、世界についても言えることである。
メタルという音楽は、供に人生を生きる音楽としてうってつけなのではないだろうか。ヘヴィメタルは既に文化としての地位を確立している。
80年代、ヘヴィメタルは流行していた。明らかに、「流行」という名で呼べるムーヴメントを誇っていた。しかし90年代そして21世紀・・・ヘヴィメタルは流行していない。
私はそれでもヘヴィメタルが好きである。その理由は、私自身が自分の人生の伴侶としてヘヴィメタルという音楽を認識しているからだ。ただ、私がヘヴィメタルに目覚めたころ、確かにヘヴィメタルは流行っていた。それに乗っているその当時の私がいた。
90年代の初め、ラップとグランジの流行がやってきた。そしてメタリカの「ブラックアルバム」により、モダンヘヴィネスのうねりがやってくる。それとともに、ヘヴィメタルは陰りをみせ、シーンから衰退していく。
自分で曲を作り始めるまでは、私は「再びヘヴィメタルが流行ればいい、もう一度あの時代が戻ってこればいい」等という考えを持っていた。しかし、「メタルアーミー」等の曲を自分で書いた今となっては、もうそうは思わない。思えないのだ。
ヘヴィメタルは、ダサイ、クサイ、かっこ悪い、今更流行らない・・・そう言われても、私はこの音楽が好きだといえる確かな理由があり、そして自信がある。そして私の好きなこの音楽を作り続けていきたい。だから流行らなくてもいい。
某HM専門誌の一部のライターは、メタルという言葉を用いて、今流行っている「ヘヴィメタルとは全く異なる音楽」に迎合しようとしている。まあ、商業誌という立場からして、そういった要素がなければならないことは分かるが、それは別冊でやって欲しい。(彼らにしてみれば、私のような人のためにもうひとつの別冊がある、というのかもしれないが・・・)
もしそれが彼らにとっての精神の拠り所であり、その音楽から得る感覚が、私がヘヴィメタルから得るものと同じだというのならば、所詮彼らと私とは人種が異なるのだと思う。
ヘヴィメタルは閉鎖的だ。オタッキーだ。ナルシストだ。といわれたら、はいそうですと胸を張ってこたえます。そもそも、音楽なんてものは、プライベートな趣味なのだから。音楽の嗜好なんて、最も個人主義だと思う。
言葉と、音があるのだから、文学よりもマニアックなジャンルだし逆に、言葉と音があるから、文学よりも「大衆受け」しやすい。より商業化しやすいのだ。
要はそこから何を得て、何を感じ、そして自分自身が何を出来るか、これが重要である。

さて、そこでメタルを愛する者どもよ、どぅおするのか?
どぉするのだ?!

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