魔暦紀元前13年(1986年)11月21日、FITZBEATより発布された第三大教典(3rdアルバム)。
『THE END OF CENTURY』、『蝋人形の館』は売り上げ以上に一大ムーブメントとなり、バンドのキャラクターグッズやゲームソフト『聖飢魔II 悪魔の逆襲』が発売されるほどだった。ちなみにファミコン版のBGMはオリジナル曲だが、MSX2版『聖飢魔IIスペシャル悪魔の逆襲』では「EL・DO・RA・DO」や「アダムの林檎」などの、聖飢魔IIの曲が採用されている。この大ブレイクを受け、聖飢魔IIは『夕やけニャンニャン』や『森田一義アワー 笑っていいとも!』などへの出演など、多くのレギュラー番組を持つようになった。 1986年6月、ゾッド親分が演奏テクニックの不足を理由に脱退、ゾッド親分のベースの師でもあったテクニシャン・ゼノン石川和尚(石川俊介)が加入する。この悪魔事異動により、第5期聖飢魔IIとなる。 ゼノン和尚はフュージョン系バンドに所属していたため、聖飢魔IIから声がかかった時相当意外だったという。聖飢魔IIを脱退する事になった時、ゾッドは「その時の思いを伝えたい」と自分の後任であるゼノン石川に自分の顔と同じ模様のメイクを施した。その時彼は知らなかったが、デーモン小暮はその光景を見て泣いていたという。ゾッドにとっては「もう未練たらったら」だったらしく、その後も何度か(10回以上)ミサに乱入していた。和尚加入の翌月、デーモン閣下が岡山・蒜山高原での野外ライブ中ステージ上のテントから飛び降りた際に足を骨折。いくつものミサ、テレビ出演が延期や中止となった。閣下は鳥取県米子市の病院に担ぎ込まれ足の手術(閣下は「改造手術」と呼んでいた)を受けた。この時閣下は悪魔の姿のまま病院に担ぎ込まれ、当時閣下を知らない一般人が多かったこともあって病院は騒然となったという。
そんな中、第3大教典『地獄より愛をこめて』の制作がスタートする。2作目までは聖飢魔IIの産みの親、ダミアン浜田の作品が中心であったが、本作はツイン・ギターの片割れ、ジェイル大橋が中心になって作られた。実はもう一曲、エース清水の作った曲「Burning Blood」を収録する予定であったが、閣下のひどい風邪がたたり、録音期間が過ぎてしまったので収録出来なかった。「Burning Blood」は後にシングル「EL・DO・RA・DO」のB面、及び2枚組CD『愛と虐殺の日々』(1991年)に収められた。
ここからシングル・カットされた「アダムの林檎」など、非常に個性の強いジェイル大橋のカラーが独特に出たアルバムである。元々アメリカン・ロック志向の強かったジェイルは、このアルバムが発売されて、2ヶ月経たずして聖飢魔IIを脱退する。なお、このアルバムも1990年までの聖飢魔IIの多くのアルバムと同じく廃盤である。
初回プレス盤にはデーモン閣下含む構成員達が「DEATH LAND」の冒頭で何を言っているか?とのクイズが歌詞カードに応募券と共に封入されており、答えは逆再生でないと聞き取れない仕様となっている。答えは当時閣下が担当していた番組「デモ・タカ VIDEO JAM」(1987年2月放送)で発表されていたが、閣下によると「4分の1くらいしか正解者がいなかった」との事である。
録音:魔暦紀元前13年9月~10月
プロデュース:聖飢魔II