この交響曲は1914年の秋には計画されていた。翌年の1915年はシベリウスの生誕50年にあたり、記念行事の中心に祝賀演奏会が行われることになり、その演奏会で初演される交響曲として作曲されたのである。同じ頃に交響曲第6番、第7番の楽想も着想されたが、記念演奏会という目的が定められたこの作品が優先して作曲された。この交響曲を作曲中の1915年4月、散歩の途中で近づいてくる春の気配にこの交響曲のインスピレーションを得たことを書き記している。
この作品の作曲時期は第一次世界大戦と重なっており、国全体が経済的に困窮していた。シベリウス自身も生活のため出版社の要求に応えて歌曲やピアノ曲を作曲せざるをえず、交響曲の作曲ははかどらなくなった。彼自身「ともかく現実的な仕事が先だ」と書いている。こうした停滞はあったものの、予定されていた1915年12月8日のコンサートには間に合わせることができた。初演はシベリウス自身の指揮により行われ、大成功を収めた。
しかし作曲者は満足しておらず、翌1916年の秋に改訂を行い、初版初演の1年後の誕生日である12月8日トゥルクにおいて自らの指揮で改訂稿の初演を行った。さらなる改訂を1917年に着手するが、フィンランド独立宣言前後の政情不安を避け避難するなどして、改訂の筆は進まなかった。第2改訂稿が完成したのは1919年秋になってからで、この年の11月24日ヘルシンキで作曲者自身により演奏された。結局、この稿が決定稿となり、この作品は最終稿に基づき演奏されるのが通例である。
交響曲第4番の息詰まるような緊張感とは対照的に、伸びやかで祝祭的な気分の交響曲である。第4番の作曲前に直面していた癌による死の恐怖から解放された喜びを反映しており、生誕50年を自らも心から祝うことができる心理状態になっていたことを物語っている。
第1楽章は、前半のソナタ形式で構成される『テンポ・モルト・モデラート』とスケルツォ風の『アレグロ・モデラート』が融合したものである。初稿の段階では2つの楽章であったものを、第1次改訂の段階で融合させた。これは、スケルツォとフィナーレを融合した交響曲第3番に対応するもので、最終的に全楽章を有機的に統合する交響曲第7番の先駆けとなる作品である。