- PIANO CONCERTO NO. 3 IN E MAJOR, SZ. 119, BB 127
ピアノ協奏曲第3番
作曲者の亡命先であるアメリカ合衆国で作曲された。自身でほぼ完成させることの出来た最後の作品である。バルトークは1940年8月に、彼の楽譜を出版していたブージー&ホークス社のラルフ・ホークスから「1941年の夏にはピアノ協奏曲第3番を期待しています」と作曲を勧める手紙をもらっている。しかしアメリカ亡命後のバルトークは大量に抱えていたルーマニアや南スラブの民俗音楽の研究に取り組んでおり、またアメリカの生活に必ずしも馴染めなかったこともあってその案をしばらく棚上げにしていた。
1945年の2月になって、彼はアメリカに来ていた次男ペーテルへの手紙の中で、「母さんのために、計画が宙に浮いていたピアノ協奏曲を書こうと考えている」と着手する意志を表明しており、このころから作曲を始めたものと考えられている。作曲当時のバルトークは白血病の末期段階を迎えていたが、本人が自分の健康状態をどこまで自覚していたかどうかは判っていない。いずれにしても、この作品はすぐれたピアニストであるディッタ夫人(ディッタ・パーストリ=バルトーク)の誕生日に合わせた彼女へのプレゼント、そして先の息子への手紙にも明記されているように彼女のレパートリーとするために着手されたものと考えられている。
スケッチを完成させた夏頃から急速に健康の悪化したバルトークは、家族や知人のハンガリー人作曲家ティボール・シェルイらに手伝ってもらい必死にオーケストレーション作業を続けたが、完成まであとわずかというところに来て、同年9月26日に世を去った。このため、ペーテルの依頼でシェルイが終楽章の未完成部分(17小節相当)を補筆した。シェルイによれば、バルトークはスケッチや総譜に略記号でオーケストレーションの指示を残していたため、作業はそれに従って管弦楽を配置したくらいで済み、後にシェルイが補作することになったヴィオラ協奏曲に比べればはるかに容易な作業だったと言うことである。なお、現在の出版譜はペーテルやゲオルグ・ショルティらがバルトークのスケッチを再検証し、エンディング部分を更に一部補筆している。
全体的に安定した調性感が特徴的で、無調性や複調性はめったに現われない。渡米後のバルトーク作品の中で伝統回帰の性格がもっとも顕著であるために、かつてのブーレーズなどは「退嬰的である」として、録音・演奏しようとしなかった。しかしながら亡命前のピアノ協奏曲と違って、本作は先述のように自分が弾くことを前提としていなかったこと、作曲にあたってロマン派音楽を好んだ当時の米国楽壇の趣味を計算した節が見られるが、しかし彼の職人的な作曲技法には衰えが見られないことなどから、現在では本作品への評価が好転している。
ピアニストの技術面から見ると、この曲は第1番や第2番に比べ、打楽器的な要素を抑えていてパワフルさが要求されないために、演奏が容易な側面がある。またオーケストラも他の協奏曲作品に比べるとやや控えめな書法である。